迷うな 迷いの回答がここにある うらないと呪詛のとびらを開きましょう

日々の教示をささえとし祈る生活は異次元の空間へあなたを連れていきます、仏教のように極楽浄土を申し上げない。現世利益の現世での問題解決をご一緒に神につなげるかたちで現世成就をいたしましょう。おてつだしいたします。

六六六 みろくの神のおみちづけ

令和二年
 
九月十日のお言葉

嫌われる虫を目にしたとき 罪あるご先祖と知れ 罪ある先祖は一番醜いすがたとなり、親しげにそばによって 殺されてしまう。悲しき運命なり それだけ現世での罪穢が大きいから悲劇的な結末となり 子孫はきづかない 駆除を満足する むかでは昔から鬼門の神様 毘沙門天の使いとされる しかし見ると駆除してしまう。ごきぶりに至ってはヒトのそばにいて ひとの飯をたべ、汚物を食べる これまたご先祖の因縁なり、とかく良い姿のご先祖を想像しがちであるが、時に ひよっとして 輪廻転生のめぐりのなかで ゴキブリにおとされた御霊であるかもしれないことを時には考えるのも大切かもしれませんね。墓の供物 仏殿の供物をあさる あさらざる負えない存在 ごきぶり 害虫のたぐいは苦しみを身体的な苦痛 子孫との因縁の精神的な苦痛を負う生まれ変わり 体の住み替えを待っている 修行のたましいとときには考えてあげたいものです。


八月十四日のお言葉

ヒトはいま先祖供養のお盆をむかえた 先祖を身近に感じる習慣であり お墓参りとして習慣となっている。住職はコロナさなかで檀家をまわりご奉仕の収入減がお寺の経営を直撃している ここで檀家のお布施とは何ぞや 真にお釈迦様のごはんとなりしか 稲荷のお堂は祭主の自己を滅して祈祷する 祈祷する 祈祷する 

八月十日のお言葉

だめだ 駄目だというなかれ それは決まった道の障害物に過ぎない。ヒトは言霊でたましいのことばをかたる きづかない きづかない しかし駄目にするも 成功するも 道の障害物とは 未知の障害物となる だからこそ不安で怖い。だからこそ無敵の武器をほしがるものぞ ここに神がある たくさんの選択肢があり たくさんの看板があるたくさんの宗教と銘打った神がある。問題はいままでどうだった。いまこそめざめよう 神に気付くのは意外と簡単かもしれない

八月三日のお言葉

昨日と今日 昨日は過去 神が作ってくれた日記の一ページ 今日はこれからつくる日記の一ページ いかにして、どんな内容がしるされるか 神だけが知る 今日が終わってはじめてわかる一日の実態 あたらしい将来を望むものよ みじかな将来をのぞめ 先祖に 神に そして自分自身に今日という一日を凶にするか どうかは今を精一杯ちからをいれることだ 神は手をさしのべる それに値するヒトになろう

七月三十一日のお言葉

神に近づく 神に近づく 現実 今の世は一時的な事象なり。今日何をなしたか自問せよ、年をとり、体験を重ねたヒトほど自問せよ。つぎの死後の世界の備えをするのだ。終活ではない。自分のみずからのこころのなかに記されている。人生とは人に伝えなければ意味なし、閻魔様につたえる目的か?ちがう ちがう ヒトのための教科書となる 子や孫はいつかきづくのだ

七月三十日のお言葉

わが生命はこの世では絶えない。宇宙の生命はわが寿命なり。宇宙には万物の命の元がある。一脈なり。みな神の子なり、天下はひとつなり。だからこそみな平等である。ともに生かされている社会とともにあり。だからこそ国家平安をいのる。そして教化を通じでヒトの生き方を教授して福祉とはこのことぞ。余命をのばし年寄りに楽を与えるものではない。人とは心と肉体の相対であり、からだは年をとろうとも、こころは新鮮なピチピチした霊体である。天理教でいう死を出直しと呼ぶのも納得できる霊体の特徴を表していますね。死を恐れることなかれ、年をとった老人に得るものは多い、こころの鍛錬者なるがゆえなり。

七月二十九日のお言葉

占い 呪詛 永年の想いの実現 ヒトは小さな望みから実現できぬことを実感したときその思いは膨らみ暗いパワーを増すものである。しかし実現して明るいパワーにへんげする。知っているからみち開きをのぞむのである。今 闇のぱわーにたよるものよ 自らの望みを光に満ちた実現 満足の 光に満ちた明るいパワーにへんげせよ。一時的な望みばかりを神に臨むんではいけない。望むなら神社 お寺で南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱えればよい。ちからとは一点に集中せよ 何度も 何度も 集中せよ

七月二十八日のお言葉

お言葉は神の言葉なり、しかしていかにして生活の中で生かすか、生かさなくてよいのである。恨み 悩み 解決策がない時に扉をたたけばよいのである、祈り手 つなぎ手 いろいろある。先の見える預言者もいるだろう。修行なき神との出会いはない 因縁のつながりのないしあわせ ふこう そして神の出会いはない。いまこれ、すべて因縁なり、ご先祖と神のみちびきなり、木の根っこ 末広がりに血の広がり 血縁の広がりは存在する。血縁のみ記録に残される。愛でそれ以外はつながると思われるだろう。これも縁 そして円でもある まるく円満な生き方 これを望むのが一番 であるが、ここにいる神は修羅場の火の神 スピリチャルな弁護士である。はたしてこの弁護士にあなたは何を伝え 解決をのぞむだろうか?  

七月二十七日のお言葉

反省とは、神の前での懺悔を意味しない 神の前に罪を告白して、許しを請うもので生まれ変わりを神に誓う。果たしてキリスト教であったこの懺悔を神社や寺院はどうだろうか キリスト教は特にプロテスタントはプロテスタンティズムと資本主義の精神でもあるように近代資本主義をささえる理論となった 果たして仏法は説かれようとも近代社会に貢献したか だからこそ新興宗教は生まれた 救われたか ここが問題である。死後の世界に恐怖をあたえて商売にするビジネス宗教を廃止して 友のため 同じ悩みの同行人のため 苦しむ人のために 同じ時刻にいのる大切さを 無欲のいのりを大切にせよ 神はあなたになにももとめたことはない もう一度 めざめよう みちは前にある

七月二十六日のお言葉

いままで何をしてきたのだ。先祖は弥陀に手を合わせ、極楽浄土を夢に見た。今の目の前のしあわせや笑顔をもとめるか、お金持ちを祈願するか。先祖も自分をしらぬまま、死後の世界をしらぬまま、子孫のまわるをうろうろしている魂がいる。現世にうろつく死神や餓鬼はまだ魂をもってうろつく霊魂を地獄に引き入れるのが仕事。だから死神は事故現場によくいるものだ。そのなかに信ずる者あり、神の子を知るものはもちろん、強い信仰心で自分の意識をかためている御霊をもつひともあり、不運の連鎖はまことのはなし、不幸ものに同情するのも意味はわかるであろう、そうなる理由があるだ、蒸気機関車は線路しか走らないのだ。今一度知れ

七月二十五日のお言葉

まことの仏法と人は言う。まことの神道とは言わない。なぜか、古来の日本の生活習慣に根付いている神道、そして鎌倉期の新興宗教が台頭するまで理論化されていなかったことも理由の一つ、世界からほめられる礼儀、恥の精神は神道からくるものである。しかし大切なことがあると思う 朝の太陽 夜の月 日本の文化であり 芸術は絵画、能楽、現代音楽として心にいまだ影響を与える大きな要素、朝太陽を拝み 夕に月を眺める 李白、杜甫の漢詩のごとくわたしたちのまわりに自然をかたちにしてかみさまは存在する。そしてここではイコール 同じものとして仏を感じる。四季を感じる日本に神宿る自然のすがたを今一度体感して、神様の実相を体の中に取り入れよう。

七月二十四日のお言葉

親鸞の歎異抄に南無阿弥陀仏による救世を教え、極楽往生を説いた。安徳天皇は海の中に不遇にも極楽浄土を求めた、死後の世界に今の苦しみから逃れる道を見つけてはいけないミロクの神はこんじん様は決してうつしよ現世の苦しみを見て見ぬふりをしない。だから縁切りをなす。だから望みを成就させるちからをもつ、先祖の力、土地の神の力、信仰しているおしえみおやのかみのすべてのちからはあなたがもっている潜在能力である。そしていままでの自分の罪、キリストはいやされるというが、みずからの自覚が必要、それは日本的には先祖の罪穢として存在している。キリストの罪とはすこしちがう、他力本願でも信心なきところに、ボランティアの神は存在していない。助ける 救う神はいない。そこには信じるという 赤ん坊のような素直なこころを神はのぞんでいる。赤心とはいつでもわすれてはいけない 神に向かう 祈願者のこころの在り方である

六月二十三日のお言葉

今の世はアマテラスの世と言われます。光はある 光はない それはヒトのこころにひかりをつけるか つけないか の努力による。着火剤は神にある。末法の世をいにしえより何度も 何度も 恐怖の中に宗教は成長した。エゴイズムをゆるす神は厳格な神ではない。のぞむものばかり、それでは神はヒトの望みをかなえるであろうか。ヒトは神の子であるが、神の子ゆえに厳罰をわが子にはあたえるものである。末法の世 何度も偉人を生み、この世に住むヒトを宗教で区分けをしてしまった。そして戦争、争いをおこない、ちちなるかみからいただいた命の光を消したのだ。ここに光をみずからともすことができるか?なぜ、他人を敵を愛せよとイエスは言ったかは答えはここにある。わすれてはいけない。神の子は習字のお手本なり、そしてみたま、こころはかがみなり、磨いて 磨いて 神に信じ つかえるべし ひかりをともす手本であれ 知らぬタミに笑われることをおそれるな 石をなげられるのをおそれるな かつて神の子であるイエスは救世主であるがゆえにわれらの罪を背負って十字架にかけられたのだ われらが神の子ならば正解はわかるはずた ここが大切

五月一日のお言葉

こんじんさまから『厳』の文字をおさげいただいた。そして同時に『楽』の文字をいただいた。同時に楽という漢字をいただいたことはそれぞれの今現在の取り巻き状況により、ご判断をいただきたいと存じます。なぜ今『楽』とでたか、にわか説明よりも『厳』の強弱をかんづればこそ、『楽』の強弱、感じ方は違うことでしょう。新型コロナウイルス感染を目で見る人もいれば、朝のニュースで数字を見るだけの方もおられるでしょう。受ける『厳』と『楽』とはかみさまの計るてんびんではつりあわないとおもわれる。しかしトンネルをぬけると光さすようにひかりはかならず来るものぞ、『楽』はドンネルを信心で克服するつよいこころに起因する。平和もおなじ 求める姿が大切なのです


二月十二日のお言葉

信じる者のみ道を知る。かつて現れ出でたる神よ 教祖よ 救世主といわれしものよ どの道を示したか?今一度振り返れ?みずからの子供 子孫がかわいいか ならば世の末 末法は鎌倉仏教にあらず これから目にするであろう 天変地異 地獄絵図 火の大洗礼は 真光で解くだけではない。皆は口にはしないでも、きづくひとが増えておる。どうしようとまよい 解決望むとも われよし つよいものがちの今のうつしよ 現代はいかにしてのこるのかは神 宗教に示しなし 信じる神は神におぼれよ 多神教の今の二ホン かつてひのもとといわれども。いまは衆愚のたまり よどみの くもりの世 きっぱり エゴをすてる道 未知なるがゆえに みちといわれる。じぶんで拓けとみなは言うも 迷うのならば こんじん信じよ 鬼と たたり神と さげすまれとも いまの今までこの世にいきておる。存在あればこそなり。これ霊験あらたかなる証拠なり、迷うな 迷うな 信じる道はいまここにあり。拝


七月七日のお言葉

いま神はあらわれん。どの宗教もいいました。無病化とてかざしで 神の子には病なしというお取次ぎもおられた いつしか神とあがめられ大宗教と成長した。ひとはみんなにひかりを受けることができない。じじつ じじつ なぜなのか 貧富 病気の早死に 仏は輪廻をとく 後生の解決と このあとの生まれ変わりに菩薩化でみずからのうまれかわりをよきものにおきかえる  よくきけ 愚なるおしえにしたがいて あたまをまるめ お経を解こうとも リンネは必然の仕組みにして じごくの道を知りたる神に頼むべし おそれてこわがる死後の世界 こんじん信じる民には なにもこわくない こわがるすがたはこんじんさまをしらぬ民なり 信じれぬざんねんな民なり こんじんにいのりをあわせないひとのむれ 天に一団体むかう船 沈んではじめてわかるおしえのうすさよ 黄泉のせかいはひかりがないぞよ うつしよの現代でこんじんさまに縁なくばそれはざんねんすくいなし、今ぞ知れ 六六六のミロクの世 あなたは目で真実をみるときがくるだろう あらためて神をしるであろう  そのためのおしえなる これ疑うことなかれ 拝


七月四日のお言葉

ひとはなぜにのろいをくらくかんがえるのか、陰にかんがえるのか?神はこたえていう そのもの そのいらいしゃにいんあるがゆえなり、暗い根があるゆえなり、のろいは祈願の陰の部分か?いやちがう 神にお願いするのである 困窮を 悩みをきいてもらうのである。悲惨な顔や こころのくるしさを神はよみとるのはりかいできるだろう。しかして呪いは陽もある 神のために祈る 神はたとえたたり神であろうとも 信じる人の笑い顔 しあわせをかんじる なみだをふき あしたのみちをおしえ 笑い顔としあわせをあたえて陽をよしとする。さすれば神の子になやみなし やまいなし 無病化ならば 陽にていのるべし。本当のあなたのこころのそこにある暗や影は神はしりたもうなり。おそるることなかれ かみにすべてをまかせることじゃ できぬ芝居はかみのまえではつうようせぬぞよ。六日のつきなみのいのりをわするるなかれ、かみはしっている。だんあつをうけようともこんじんしんこう たたりがみ信仰は世につたわり、現在にいたる。これうたがうことなかれ。 神は一本のみちなればなり  拝

五月十五日のお言葉

何回も神示はあり、あなたに あなたの家族に そして 日本に 世界に めざめよ なんども警告をした神の言葉  なぜ なぜ 日常におわれ 神を身近に感じない 不幸なる神の子よ 自覚せよ 自覚せよ。 初詣では 開運なし、仏の慈悲も 仏しらずのヒトの子には 馬の耳に念仏 意味なし ヒトは自覚してない 神はしぶとく 金神様をつうじて おしえている なんども なんども おしえている。あなたのさとりを あなたのみたまみがきを おしえている。わたしたちは神の子であるがゆえに みなで祈り合わせをゆるされている  のぞみ なやみは 霧のごとく 前見えず  海のごとく ひろく 結末が見えねども こんじんさまは光のかたまり ひかりにつつまれ のぞみ 神徳 人一倍に 浴びる日いつか 五日の いのりがけ 真剣か 否かは すべて神の知るところ 祈り合わせも 神はみている みているからこそ 神の子はそのちからをみずからに知ることができる うたがうことなかれ 拝

五月九日のお言葉

人知れずいのるすがたをこんじんさまはみています。ひびの言葉をこんじんさまはきいています。朝起きて神に感謝する姿をこんじんさまは見ています。天照大御神や 八百万の神はへんげなし こんじんさまは時にアマテラス 時に地獄の閻魔に変化をなす、ゆえに眷属神を九尾の狐としたがえ、民に怒りを救世をほどこす。神事はたいせつな神のいやしであり、会話である。こんじんさまは極限の神なり、至福も最高なれば、いかりも最高である。ときにひとはこんじんさまをうしとらの方向に ひつじさるの方向にとじこめ、鬼門に閉じ込め たたりがみとして 避け さげすんだ。今気づけ あなたは神社 寺院で何をなしたか 真の神に出会えたか? おのれの信じる道はみずからにご神徳をいただけれたか?もちろん神には信仰 奉仕 もろもろのすがたを示す必要あり。初詣でかえりに交通事故をするはなぜか? 鳥居の外にはガキのたまり場。鳥居の中にはいれず、外で帰り道のヒトをまつ。かえりみち 疲れは肉体の疲労のみにあらず 霊のさわりが霧 雲となり まわりにただよう。五月 要注意。日に日にいただく 光と闇を 月日に感謝 太陽神の光をかんしゃのこころでうけいれ、一日をよろこびの中ですごしましょう。 こんじんさまはあなたのすぐそばにおられます。 拝

四月十四日のお言葉

健康は体内の血の巡りのプラス結果である。われわれ神の子はみずからの肉体の主人公である。自覚せよ 自覚せよ 主人公だから体の支配権を持つ、血の巡りは主人公の権限である 血圧よ下がれ 血圧を下がれ 神の子の私は神が得て 使うことのできるすべてのみわざをいやしをつかうことができる神性を開花せよ。自らのこんじんさまにたよることにより、修験者が修験道で得る神授けの不思議な力は得られるものである。御霊をみがく そこに人集まり おしえは広がる。それもまた神の子のつとめであり、神にねがいごとをするささげものである。においがけは信者拡大 無理なく かおりのたれゆくままにまめひとしんじゃはかおりゆく


四月十一日のお言葉

みずからのこころとは、操縦できるものぞ。みずからが肉体に 心身に 不完全な 燃え切らない 満足の得られない不完全な状態を良しとしてはいけない。こころは特に思うがならないのは一番苦しいものである。心の問題が解決すればとかく肉体の問題も解決するものである。まず今いる私は霊であることを自覚せよ。こころからも 肉体からも自由な存在として自覚せよ。わたしたちは神の試作品でもある。そして神の意志により作られた無限の愛と無限の知恵と無限の生命を持っているものなのである。わたしの実態は自由な霊である。自由な霊なる神の子なのです。自由に肉体を使用して、自由にこころをはたらかす。かんながら かんながら かみまかせの人生がいま確かめられる。根底は 信じるか否か ただ 自らの霊は遠津みおやのみたまのはたらきもあり、ご先祖様の色インキに時に染まる。遺伝にあらず あなたの姓はご先祖の今にいでたるあかしの言葉、わが霊とはあなたと因縁のみたまの産物なり。あなたの霊はたくさんの道をもつ、しかして自由なる霊はみたまをみがくことで得られる。善行とは他者にほどこすにあらず、みずからにこやしとなるための修行なり、自由なる御霊これはあなたのちからとなる。災いを突破する自由なる御霊。もっと自由に たしかに自由なるみたまとなろう。みずからの行者の道はいまひらけたり。 拝

四月十日のお言葉

病を治すとは、実相を理解することからはじまる。すべてはこんじんさまのとりきめである。神 霊 一定の法則によってなる。生命の起源はこんじんさまのなしわざによる。わたしたちが神の子 鬼の子であるかぎり神頼みとされていたすべてのかみさまの能力はもともとさずかっているのである。こんじんさまは善なる存在であり、正義であり、あらゆる悪 不幸とは無縁の存在である。なぜにいまわたしは不完全、やまいにまようのかそれは神の子であるがゆえに自覚なき日常をすごしてはいないか?すべてを隠していないか、罪をおかしてもごまかしていないか。すべてをみられていることをきづくべき、偽善者の罪は重い。悔い改めはうまれかわりの作業なり、神は再び神の子に流れいる、そして祈り合わせの秘儀により、自らの生きる目的を日ごろに日常に祈念して 目的のために体をうごかし、前に進め 神がからだに流れ込んでいることを自覚して 病の悪神を退治せよ。なぜその力はあなたにあるのか?祈り合わせは集団力 神通力のかたまりなり、皆で神のみこしをかつぎだせ、ひとりのちからをぬいたのではみこしはかたむき神は不敬をむくいとする。こころして祈り合わせで神をみこしにまつりだせ、これうたがうことなかれ。四月十日の早朝は神の恩寵に満たされたり 拝

お電話 メールでのお問い合わせはこちら

mail odk390905@gmail.com

受付 10:00~12:00 / 13:00~17:00

うらないのご案内 概要

営業時間平日:10時~20時
土日祝:9時~18時
受付平日:19時まで
土日祝:17時まで
定休日休日はございません。困ったときの駆け込み寺
見料 うらない料金
1,000円
スタッフ数霊師 3名
駐車場有り(3台)
住所岡山県瀬戸内市邑久町本庄2500-2 稲荷堂

アクセス

powered by crayon(クレヨン)